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村社会は都市社会に倣おうとし、日本全体はと言えばヨーロッパ社会などの生活スタイルに憧れるという状況でした、そこには、自分たちの暮らしや歴史、環境を負の要因として否定しながら、新しいものを取り入れていくという意識が見え隠れしているのです。このような社会状況の中で、内子町における町並み保存は、地域資源の活用のあり方を考えていく上で一つの成功事例として内子町に多くの示唆を与えるものでした。

 

「森と谷間のまちづくり」の始動
内子町には、市街地に向けて小田川・中山川・麓川の3本の川が流れて込んでいます。人々は、この川に沿って集落を形成し、農業を営んできました。土地は急傾斜で耕地面積も狭く、典型的な中山間地です。昭和30年の町村合併までは、この流域の集落は、個々に村制がしかれ、独立していました。ノーベル賞作家大江健三郎氏の出身地である大瀬地区もかつては大瀬村と呼ばれていたところです。内子町では、町並み保存運動のノウハウを生かして、市街地から10km西に入る大瀬地域にHOPE計画「森と谷間のまちづくり」計画を策定し、住まいから地域の景観と環境の整備を住民と行政の協働で考えていこうとしています。大瀬村の時代、中心をなしていたのが成留屋地域です。この地域には、まだ小さいながらも商店が並び、小中学校をはじめ、公民館、保育所、旧大瀬村役場などの公共施設も設置されています。小田川沿いに建ち並ぶ集落は、その暮らしの息づかいも含めて大瀬らしさを感じさせてくれます。地域では、この大瀬らしさを守るために小田川沿いの自然環境を保全するために植栽事業が住民の手で行われています。何かを手段として地域運動にかかわることが、新しい地域の資源の発見や再生につながってきます。

 

山村における「地域の顔」づくり
平成6年に自治総合センターから助成を受けて建設された「程内地区コミュニティセンター」のある程内地区は、この旧大瀬村に所属し、成留尾から6km北に入ります。この地域は、かつて明治末から大正にかけて「熊ノ滝鉱山」を抱え、銅の採掘で繁栄しました。当時の労働人口が7000人〜8000人、内子町で初めて電灯が灯り、映画館や病院まであった地域とは、戦後世代の我々には想像もできませんが、現存する鉱山の跡に立てば、松尾芭蕉が「夏草やつわものどもが夢の跡」と詠んだ境地に近いものを感じることができます。その昔、時代の隆盛を極めたこの地域も、今では、基幹産業である葉タバコを主とする農業にも陰りが見え、兼業化がすすみ、地域の高齢化と過疎現象は高まるばかりです。その中にあって、地域のコミュニケーション施設として、年齢を問わず利用されているのが、「程内地区コミュニティセンター」です。
この施設は、事業費も面積も小規模ですが、高齢者や婦人、幼児、青少年が気軽に活用できる施設として

 

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